下町黙示録 第二節 ハ■ニワのハ■ニワ

 アリエッタ・イルミネイションはアリオド少年含む全児童の憧れの存在であった。くすみのない白い身体。やわらかい金色の髪。赤の黒のオッドアイは血と夜を連想させるようだった。動けと言われれば動き、止まれと言われれば止まる。そして、息一つ乱さずに次の行動に移る。変動し続ける生物でありながら、その挙動全てを制御し、死をも生をも感じさせる有様は正に「完全」と評するにふさわしかった。

 一方、アリーウッド・ヴィンテイジに対する皆の印象はただ一言、「落ちこぼれ」である。あまりに異質な青い髪、生傷が絶えない貧相な身体。何の例えようもない凡人染みた黒い瞳。走っているとすぐに息が切れ、止まる指示が出ても2、3歩遅れる上、完全に止まることができず、息を荒げて肩をふるわせる。おまけに時折せき込んでは、自室にこもり窓から見学するのだ。

 ハコニワに来た子どもたちは、初めの訓練からおよそ1ヶ月で身体を制御できるようになる。アリエッタは1時間でできるようになった。アリーウッドは3ヶ月経った今もできる気配がない。

 アリオド少年はアリーウッドを嫌っては居なかった。しかし好きでもなく、また尊敬もできなかった。

 アリオド少年はあることに気がついた。彼らは皆、自分の名前を偽っている。元の名前の上から2文字が変えられているのだ。それは同じに文字であるはずだった。なのに認識ができない。変えられているという事実だけは認識しているのに、そのたった2文字を思い浮かべることができない。

 ハコニワの子どもたちは、この日のことを一生忘れないだろう。朝の7時。いつもならばほとんどの子どもたちが目覚め、庭に出ている時間だが、そこにアリエッタの姿は無かった。アリエッタは完全なる存在であるのだから、まさか病気になっているはずもない。そう思っていた子どもたちは、顔には出さずとも動揺しているに違いなかった。
 アリエッタと仲の良かったアリアンナが彼女の部屋まで様子を見に行った。しかし、アリエッタはいなかったという。庭にも部屋にもいないならどこに……と思いかけていた子どもたちの内、数名がはっと気がついて瞳を輝かせた。あのうわさは本当だったのだ、と。
 アリエッタはついに『彼女』の領域に達したのだ。世界の根源であり、万能の『彼女』。かつてだれもたどりつけなかった境地に踏み入ることを、アリエッタは許された。その推測は子どもたち全員に渡り、そして革新の色を強めた。
 アリエッタは『彼女』となった。『彼女』とはアリエッタのことだ。それはハコニワ中の人々の願いに適うことだった。この日、ハコニワの子どもたちは喜びに包まれていた。もちろん、アリオド少年もその気持ちを共有していたのだ。
 その喜びを胸に抱いて、皆が寝入った夜の10時、アリオド少年は目を覚ました。
 そして、静かな気持ちで、『彼女』を思い浮かべた。
 しかし……、何も思い浮かばなかった。
 もし、アリエッタが『彼女』になったというのならば……、『彼女』の姿はアリエッタとして鮮明に浮かび上がるはずだろう。犬を思えば犬の姿が浮かぶように。リンゴを思えばリンゴの形が浮かぶように……。
 『彼女』がアリエッタではないならば、アリエッタはなぜいなくなったのだろうか。その時アリオド少年は、不思議な感覚に包まれる気がした。『彼女』とは、何者で……、『彼女』とは、一体……。やがて、アリエッタは『彼女』ではないことに気がついた。
 アリエッタは完全だ。しかし、『彼女』はそれ以上に……いや、言葉で『彼女』のすばらしさ全てを語ることはできない。『彼女』はあまりに貴い。この世の全ての生命をもってしても、『彼女』の貴さや美しさ、はかなさとはとてもつり合わない。全人類を抹殺すれば『彼女』を理解できるというのなら、人々は進んで自ら命を絶つべきなのだ。それほどの存在である。『彼女』というものは。アリエッタはどうなのだろうか。アリエッタに近づくために、人を殺したり、自害したりする者はいるだろうか。もしかしたらいるかもしれないが、少なくともアリオド少年はしたくはなかった。『彼女』は全人類に共通する全ての象徴だ。たったの1人でさえ、『彼女』への意見を違えてないし、違えるべきでもない。その点で言えば、アリエッタは単なる人としての尊敬に値するのみであり、『彼女』の足元にも及ばない気がした。いくら完全といっても、アリエッタはやはりただの人だったのだ。……だが、この世にあふれかえる人間の中で、限りなく『彼女』に近い存在であったということは事実だろう。そうでなければ、先ほどまでアリオド少年を含んだ子どもたちに、自分が『彼女』になったのだと本気で思わせることはできない。だがそれゆえに、どうしてアリエッタがいなくなったかという疑問は、依然としてそこに残る。人の中では完全だったアリエッタ。彼女は一体、どこへ消えてしまったのだろうか。

 ハコニワにはおよそ50人の子どもたちがいた。
 最年長で18、最年少で3歳。年齢による区別はほとんどされなかった。

 アリオド少年は、一人苦悶する。
 自分たちに共通する「何か」。それは明らかに示されているのに、だれも気がつかない。気がつこうとしない。気がついているのに分からない。
 アリエッタの死骸は山の奥で丁重に埋められた。あの時、涙を流す者はいなかったが、皆どこか気が抜けたような、呆然とした表情をしていた。どれだけ完璧な人であっても、死んだ後に言葉を紡ぐことはできない。彼女は苦しんで死んだのだろうか。それとも安らかに逝けたのだろうか。
 土を被せ終わると、すぐに山を下りた。一言として私語は無く、乱れの無い隊列が道を行く姿は、さぞ美しいものだっただろう。
 ハコニワに帰ったら、またいつもの日常に戻るのかと思うと、ひどく憂鬱であった。
 あのアリエッタですら、死後の扱いはこんなのものなのだ。
 それならば、自分が死んで、何が変わるというのか。死によって何かを変えられるのか。
 自分たちは1つのパーツにしかすぎない。しかもそれは代用の効く、使い捨ての大量の部品だ。
 アリエッタはその中で少しキレイで、たまたま目立っていて、運よく長く使われたに過ぎないのではないだろうか。そうでも考えないと、彼女の人生があまりにあっけなく幕美かれた事実に対して、納得することができなかった。
 ……『彼女』が何も言わず死んだというのは、これに似かよったことではないだろうか。
 アリオド少年は、はまらないピースを無理やりねじ込んで完成させるように、アリエッタの死を、『彼女』の理解の一端のものとして、帰結させた。

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