けんこえ

 町から出た『彼』は、象牙色の髪を風に揺らし、街道を歩いている。私はその後ろでぶらぶらと、変わり映えのない草原と晴天を眺めたり、それに飽きれば『彼』の横や正面に立ち回り、『彼』の秀麗な姿を見つめては満足していた。
 ……さて、『彼』のことを『彼』と呼ぶのも情緒があって中々面白かったが、そろそろこの一人遊びにも飽きたので止めにしよう。それに、私が見つめる『彼』、そしてことによれば『私』という視点そのものに疑問を持つ人もいるかもしれないから。と、誰が見てる訳でも聞いている訳でもないが、私は芝居染みた風に言ってみる。

 『彼』が親から与えられた名はサキチ。故に私も彼をサキチと呼ぶ。東国風の美しい名前だ。歳はおそらく16だが、人形のように愛らしい風貌はその年齢よりやや幼く感じさせる。肩まで伸ばした象牙色の柔らかい髪の毛は花嫁のヴェールを彷彿させ、透き通った瞳は例えるならば紫水晶だ。そんな清純な彼の隣にいるだけで、私の心は満たされていくようである。
 サキチは人里離れた施設で、父親と二人暮らしをしていた。そして今は父親の言いつけにより、故郷を離れ旅をしている。……正直なところ、私はその父親の“言いつけ”についての詳細は知らないのだが、無断でサキチの旅に同行させてもらっているわけだ。故に、彼の旅について私が解説できることは、今のところ何もない。現在進行形で見守っているところだ。
 以上が、私がサキチ本人について知る情報である。言い損ねている事柄もあるにはあるだろうが、ひとまず重要なのはこの辺りであろう。

 ……それでは次に、私の自己紹介といこうか。正直必要無い気もするが、自分のことを整理するというのは、暇つぶしには丁度良いものだ。
 まず私は、名前が無い。いや、『無い』という名前ではない。当たり前だが。つまりは、名前が存在しない、という意味だ。より正確に言うと、あったかもしれないが、覚えていない、ということになる。
 そして、私には肉体や実体といったものがない。サキチをはじめとするどんな存在も私を知覚することはできず、鏡や水面の前に立っても姿らしきものは何も映らず、自分自身ですら、自分の中心と思われるあたりに視界を向けても、“そこには何も無い”ということしか分からない。いわば、透明人間のようなものだろう。実体の無い私を私たらしめているのは、人並みの視覚と聴覚と嗅覚、そして冴えわたるこの“思考”だけだ。
 肉体が無いので、当然ものを触るということはできない。だがそれは移動するのに歩く必要が無いということでもあり、存外悪い気はしない。時折、サキチに触れるための身体も言葉を届けるための声帯も持っていないという事実に打ちひしがれることも、無くはないが……。
 それと、何を話すべきか……。ああ、サキチの旅に同行している理由については、私がサキチを好いているというのが本質ではあるが、強いて言うなら「成り行き上」とでも言うべきか。というのも、私はサキチと出会う以前の記憶がほとんど無いからだ。

 多少昔の話になるが、ふと気がつくと私はこの世に“存在”していた。そして存在しては、突然“消えた”。この頃の私はおそらく明瞭な思考回路というものはなく、自発的にか無意識かは分からないが、とにかく“存在”している間に世界各地をうろついていたようであった。曖昧な感覚器官が受け取る情報はどれも不明瞭で、僅かに残るそれらは記憶と呼ぶにはあまりに頼りないが、今となっては私が持ち得る貴重な記憶の断片だ。
 “存在”と“消失”を繰り返していたある時、突然、私はそれまでとは異なる明快な視界を得たことに気がついた。また、そのことを認知するほど瞭然な意識があることにも、同様に気がついた。この時、初めて視界に止まったのが、他でもないサキチであった。
 彼は何をしているでもなく、人形のような佇まいで、紫色の澄んだ瞳を天に向けていた。その双眸は偶然にも、実体の無い私の視線と、真っ直ぐに重なった。そう――、運命の瞬間である。意識を得たばかりの私は、その瞬間、無いはずの身体を撃ち抜くような、激しい衝動を感じたのだ。あまりに麗しく愛らしい彼に一目で好意を持った私は、丁度旅に出る数日前のようだった彼の後を追いかけた。正体不明の自分自身への問答もそこそこに、目覚めたその場所――つまりサキチと彼の父の住む家を飛び出したのだった。
 そういう訳でしばらくはサキチを追い愛でるのに必死であり、自分に鮮明な記憶が残ってないと気がついたのは、実はつい最近のことである。そして気がついたところで何か不便があったかというと、別段そういったことは無い。先程まで滞在していた町のように、訪れて初めていくらかの記憶が溢れ出すこともあるようだが、基本的に私が意識的に思い出せることは無い。しかし、それで悲観するというよりむしろ過去のしがらみに囚われず気ままに過ごせている、というのが現状だ。

 ……ああ……、思ったより長い話になってしまった……。ともあれ、今の私はサキチの隣でサキチを見守ることを至上の喜びとしており、実体と記憶が無いことを逆手に、自由な生を楽しんでいるわけだ。
 ……生?いや、そもそも私は生物と言えるのか?まあそれすらも些事ではあるか。

 果てさて、そんないつもの一人芝居を終えた頃、サキチがふと歩みを止めた。そう、やはり適当に暇をつぶすにはこのくらいの長さを語るのが良いのだろう。

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