けんこえ

-->第一話

 空から差す穏やかな陽光が私に温もりを与え、優しく吹く風は草木の香りを運び、私の嗅覚を刺激した。
 一度と言わず二度、三度と離れたこの場所だが、こうして足を踏み入れれば、どうしようもない懐かしさが心の奥底から込みあがってくる。続けて沸き立つのも肯定的な感情ばかりで、今の自分が相当浮かれているのだということに改めて気が付かされる。これまで感じてきたのは、決して良い感情だけとは限らなかったはずなのだが。まあいい。負の感情が大きいならば、そもそもまたこの地に戻ってくることなんてなかったはずだ。おそらく私は、私が自覚している以上に、この場所に魅力を感じているということなのだろう。
 私が思いをはせている内に、『彼』は恐る恐る歩き始めた。四肢を動かすことはもう十分経験しているのだから、やたらとおっかなびっくりなのは、初めて見る町に対する緊張からであろう。

(大丈夫、ほら、あの人だ。)

 そう遠くない場所でたたずむ老人を指し示し、私は『彼』にささやいた。まるでそれに気が付いたかのように、『彼』はその老人を目視すると、そちらへまっすぐ歩いて行く。
 『彼』の後をゆったりと追いながら、私は周囲を見渡した。思い出せないほど昔に見たきりの光景を鮮明に思い出せるほどの記憶力など私は持っていないので、周囲の致命的な変貌にギャップを感じたり、些細ではあるが確かな変遷にショックを受けたり、なんてことはなかった。果たしてそこらに立っている人物に対してさえ、彼らがかつてもこの地に存在していたかと問われれば、そうだったような気もするし、そうじゃない気もする、と答える他無い。しかしこの場所そのものを取り巻く空気感だけは、私の記憶と寸分違わず、仮にこの町が私の記憶にあるものと異なる何処かであったとしても、私は今『ここ』にいるという実感を持てるだけで、十分に満足である。
 『彼』が老人のもとへ着くと、老人は少し驚いたようにしわだらけの顔に更にしわを寄せ、そしてすぐに口を開き『彼』に語りかけた。その様子と言葉に『彼』を否定するようなものは含まれていなかったので、私は安心し、無い胸を撫で下ろした。
 老人と『彼』が話をしている間、私は空を見上げ、くっきりと鮮明に浮かび上がっている雲を見つめていた。覚えうる限りのあの頃は、もやが何重にもかかったようで、空そのものと同化しぼんやりとしか認識できなかったものが、まさかこれほど鮮明に拝める日が来るなんて。視覚情報を犠牲にでもしないと地に立っていられなかった、いや、そうしたって意識が吹っ飛ぶときは四の五の言わさず吹っ飛ばされた日々を散々経験してきた私にとっては、正に夢のようなことである。
 時代は変わるものなのだな、などとしみじみ感慨にふけっていると、『彼』は再び動き出した。その手には丁度両手で包み込める程度の箱があり、『彼』は肩から下げた鞄の中に、その箱を大切そうにしまい込んだ。そして老人の方に改めて向き直り、一礼して、その場を立ち去っていく。
 『彼』の後ろ姿を見送る老人は、小さく口を動かし、「頼んだぞ」などと一言、しわがれた声で言った。老人の見送りを見やるのもそこそこに、私は『彼』の後を追いかける。

 遅すぎず急ぎ過ぎない速度で歩く『彼』は、標識を頼りに町の出口へと向かっているようだ。どうやら、もうこの町から出ていくつもりらしい。『彼』にとってこの旅は、道楽目的ではなく、れっきとした“使命”であるからして、目的を果たしたら寄り道せず即座に次の場所へ向かうと心決めているのだろう。私はこの町に対しやや名残惜しさを感じつつも、『彼』の意思を尊重し、何も言わずついていくことにした。そもそも何か文句を言ったところでそれが声として伝わることはないし、何より私は、真面目に自分の役割を果たそうと頑張る『彼』の邪魔をしたくはないのだ。

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